GC後期F・G<WRC1998~2000>

GC後期F・G<WRC1998~2000>

<WRC1998~2000>

 WRC1998年シーズンは、苦戦続きでマニュファクチャラーズ3位、コリン・マクレーがドライバーズ3位というリザルトとなった。

 WRカーはその広い改造範囲がゆえに、各メーカーとも模索が続き、実戦を重ねながら熟成させ、正解を求めた。一方で、グループAで戦いつづけることを決めたミツビシが、熟成しつくした完成度の高いランサーエボリューショングループAで1997年、1998年ともにドライバーズタイトルを獲得したのである。

 そして、99年。WRカー規定導入3年目となるこのシーズンは、新たなライバルとして、グループAの残像を完全に拭い去った本格的なWRカーがデビューすることとなった。フォード・フォーカスWRC、プジョー・206WRCなどWRカー規定をギリギリまで攻めたマシンたちである。

 スバルは3年目となるインプレッサWRCに、4度のWRC王者を獲得した大ベテラン、ユハ・カンクネンと期待の若手リチャード・バーンズを乗せて戦った。これまでエースを務めていたコリン・マクレーはこのシーズンからフォードに移籍し、チームを去った。このシーズンは、カンクネン3勝、バーンズ2勝で計5勝したもののスバルはマニュファクチャラーズ2位、ドライバーズもバーンズが2位という結果となる。

 また、このシーズンは新井敏弘が初めてWRカーによるワークス参戦を果たした年でもある。1997年にCUSCOブランドで知られるキャロッセのインプレッサで全日本ラリーチャンピオンとなった新井は、1998年にグループNにでの海外ラリーへの参戦を開始。1999年のアクロポリスラリー(ギリシャ)で、ついにWRカーのシートを獲得する。このチャンスで新井は総合3番手タイムなどをマークしながら、総合9位で完走し、世界にその名が知られるようになるのである。

 2000年シーズンは、GC型の外観を持つWRカー最後の年だった。翌年には2000年8月にデビューとなるGD型インプレッサがWRカーのベースとなることが決まっていた。だが、スバルはこれまで3年使用してきたWRカーからビックチェンジを行い、インプレッサWRC2000をデビューさせる。外観上の変化はボンネットに大きなダクトが追加されただけのように思えたが、その中身はこれまでとは別物だった。

 このWRカーのテーマは2つ。低重心化とエンジンのクーリングである。燃料タンクを3分割にしてリアシート下に納め、ベダル類なども吊り下げタイプからオルガンタイプに変更、コドライバーの着座位置も極力低く後方に設置するなどして、低重心化を図った。これにより元々得意としていたコーナーリングがさらに磨き上げられた。クーリングに関しては、フロントに置かれたラジエターやインタークーラーの熱をエンジンルーム内に入れずにボンネットから排気するレイアウトに変更。よりエンジンの出力を上げることが可能となった。

 こうした改良でスピードが増したインプレッサだったが、エースのバーンズはライバルであるプジョー・206WRCを駆るマーカス・グロンホルムに僅差で破れてドライバーズ2位、マニュファクチャラーズも3位。しかしながら、プライベートチームを対象に競われたFIAチームズカップでは新井敏弘が勝利した。